教員ママの!勝手に!滑川町改造計画

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教員ママの野望と活動と子育ての記録。

個人の尊重と、学校現場のギャップで思うこと

個人の尊重は、教育でも一番大事!

この話を書こうと思ったのは森の測定室で借りた、
飯能市での前川喜平さん講演会DVD
『子どもの未来をひらく教育』を見たからだ。
前川さんは、前文科事務次官を務めた人らしい。
私は前川さんと聞いてピンとこなかったが、
DVDを見てたら旦那に「前川さんじゃん」と言われ
ニュースでも話題になっていた人だとやっと分かった。

前川さんご本人のことは置いておいて、、、
DVDの内容で共感できた部分と学んだことを紹介したい。

まず個人の尊重については非常に共感した。
憲法では、一番に『個人の尊重』が大事だとしている。
個人は『国(集団)』よりも尊重されるべきものだと。
『教育を受ける権利』は、自ら学習できない子どもが
大人に対して学ぶ機会を求めるものだ。
誰でも、学ぶことは、生きることと同じ位の価値がある。

学校の『役割』は「“自ら”学ぶ力をつけさせること」だと
前川さんは言う。勉強を教えることではなく、
生活習慣や、規則を身に着けさせるものでもないのだ。

主体性!主体性!!と、叫ばれて、学校では授業に
『総合的な学習の時間』や『アクティブラーニング』
『強調学習(ジグソー法など)』を
取り入れなさいと言われるようになった。
総合的な学習の時間は『自分たちで考えて議論する場』。
本当に、これらは子どもの主体性を尊重しているのか?

子どもは先生から用意された授業内容を、
やれと言われるからやる。話し合えと言われるから
話し合う。子どもは“自ら”話し合いたくてしているのか?

子どもらが自ら議論(話し合い)をするとしたら、それは
授業中ではなく、休み時間や放課後になるのではないか?
子ども同士の話し合いは突然始まるし、『何について』の
議題を決めることなく、ざっくばらんに意見が交わされる。
その休み時間の熱量のまま、授業時間になった場合、
担任の考えでそのまま議論を続けさせてくれれば
その授業は“主体的に”議論することができるかもしれない。
チャイムの音で、子どもの習慣として、ふと冷静になって
いつも通りの『授業』になることもあるかもしれない。

“私が”、授業でグループワークを“したい”ときは
生徒の主体性云々というよりも、お互いに質問し合ったり
説明し合ったりして理解が深まるときがあるからだ。
生徒に聞くと、班で話し合って良かったという意見と
もうやりたくない(話し合いが広がらない)意見とがあり
班によって全然異なる結果になることもある。
それはそれで良いと思う。(最終的には全体でまとめる。)

授業で主体性を!!と言うならば、『時間割』をなくして
自分で学びたいときに学びたいことをやるべきではないか?
学校では、時間割やチャイム、校則、部活で、生徒を
ガッチガチに縛り付けて…子どもの主体性はどこへいく?

学校現場で思うこと

学校は、個人よりも集団が重視されがちである。
学校生活を円滑に進めるために…。
時間を守る・校則を守る・あれはダメ・これもダメ。
始業式に、各クラス前から順に制服&頭髪チェックなど…
規則を守らせる生徒指導は、私には全くできない!
自分が緩~い高校生活を過ごしたから(笑)
もっと生徒の自由にさせたら良いとさえ思う。

私の高校は、地元の公立女子高だったが非常~に緩かった。
ほぼ全て、生徒の自主性(?)に任されていた。
制服はあったが、Tシャツ・パーカー登校OK、
茶髪もいたし、私も友達もピアスを開けていた。
休み時間に近所の和菓子屋さんにイチゴ大福を買いに行く。
それでちょっと授業に間に合わなくても
「ごめんなさい」で済む学校(汗)
修学旅行は、各日、京都のホテルに帰ってくれば
どこに行ってもOK。大阪のUSJでも、奈良の法隆寺でも、
神戸の異人館でも、広島の厳島でも…どこでも。
もちろん事前に、班で練った『予定表』は提出している。
文化祭も、体育祭も全て生徒任せで、大いに盛り上がる。
学校で「もっと勉強しなさい」と1度も言われなかったな。
自分達が、やらないといけないと思ったことは自らやる。
思えば、母校の先生方は寛大だった。
今では、厳しくなってしまったと聞く。残念だ。

今の教育は『生徒への面倒見が良い』ことが
良いことだとされているようにも思う。
面倒見が良いことは本当に良いことなのか?
面倒見の良いこと=一人ひとりチェックし指導すること
=子どもを管理すること=
子どもを大人の思うようにコントロールすること…?

私は、もっと子どもに任せても良いと思う。
子どもでも、しっかりと自分の意見をもっている。
高校生にもなれば、主張できる力もある。
子どもには「自分の生活に関わることについて
意見を言うことができる権利」が保証されている。
子どもの権利条約にて)

『面倒見が良い』ではなくて、
一人ひとりの『個性』を大事にすることが望ましい。
子どもが自分らしくいられる場をつくりたい。
他人と違って、それで良いと思える学校。
学校は、すべての生徒に安心できる場であるべきだ。

そうならないのは、、、なぜか…?学校はチームだ。
たくさんの教員がいて、各先生方でも意見は異なる。
部活動1つとっても、生徒全員にやらせたい先生と、
やりたい人だけやればよいと思う先生がいる。
私は全員にやらせるのは“強要”だと思っている。

全ての意識を『集団<個人』に変えることは難しい。
校長まで上りつめれば変えられるかもしれない。
でも、最終的には、現場の先生の意識だ。
“学校文化”は、それぞれの教員とその生徒で
長い時間をかけて作られる。だからこそ変化しにくい。

教育機会確保法について

この法律は、不勉強なもので、私は知らなかった。
前川さんのDVDを見て初めて知った。
簡単に言うと、義務教育を受けていない人、
以前および現在、不登校の児童・生徒、
海外から日本に働きにきて学びたい人等に
学ぶ機会を保証するものらしい。

 この法律では、不登校特例制度というものがあり、
不登校の子どものため…なんと!
『学習指導要領によらない教育が認められている』
という。ということは、自分で学びたいことを
学びたいときに、自由に勉強できる!
時間割も自由、座席も自由、
学校外で学ぶ機会を認めるということ。
法律で、不登校を認めるということ。

不登校は、子どもにとって必要な休養で
休養する権利を認められた訳である。知らなかった…。
不登校は、学校に適応できない子どもがなると
言われているが、子どもに問題があるのではなく、
そもそも全ての子どもに安心した環境を提供できない
学校側に問題がある。

そして、だれでも、不登校になる可能性がある。
学校が安心できないから。
学校に自分の居場所がないから。
ウチの子どもたちも不登校になってもおかしくない。
私は「本当につらいなら学校なんて行かなくてよい」と
いう考えで、ウチの子どもたちにもそう言うつもりだ。
不登校に罪悪感を感じる必要はないと思っているが
実際、「学校にいけない自分は悪い子」と思う子もいる。
この法律で、不登校は『悪いこと』ではないと
認めてもらえたことになる。

この不登校特例制度でつくられた公立学校は、
まだ全国に4校程度しかないという。
多くの地域で必要とされているのに、
教育委員会レベルでは十分に利用されていない。
滑川町も他人事ではない。
ぜひ比企地区・東松山含めて、ご検討願いたい。

最後に…

生徒には寛大になれるが、ウチの子どもには沸点が低い私。
ここまで、長々と主体性の重要性を訴えてきたが、、、
実は先日、ウチの子につまらないことで怒ってしまった。
「今日の給食はうどんだったから、夜はうどんヤダ」と。
その日は朝から「夕飯は焼きうどんにしよう」と思って
ご飯すら炊いてなく、帰宅後に温めるだけにしておいた。
が、先ほどの発言。

こっちは仕事で疲れている。今からご飯を炊く時間はない。
子どもはお腹すいた、早くしてと言っている。
焼うどんだから、ご飯のおかずの準備はしていない。
もう~、私の小さな心の器が、ひっくり返って…
つい怒ってしまった。。。本当に器が小さい。
子どもが泣いたのを見て、すぐに反省して、謝った。

結局、その日は、前にたくさん作って冷凍しておいた
炊き込みご飯のおにぎり。冷凍庫にあってラッキー☆
あと、急いで作った適当なおかず(笑)

…子どもの主体性を認められるのも、
大人に大きな器がないとできないなと思った次第です…。